齋藤内閣
齋藤内閣(さいとうないかく)は、枢密顧問官、退役海軍大将の斎藤実が第30代内閣総理大臣に任命され、1932年(昭和7年)5月26日から1934年(昭和9年)7月8日まで続いた日本の内閣。 閣僚の顔ぶれ・人事国務大臣1932年(昭和7年)5月26日任命[1]。在職日数774日。
内閣書記官長・法制局長官1932年(昭和7年)5月26日任命[1]。
政務次官1932年(昭和7年)6月1日任命[9]。
参与官1932年(昭和7年)6月1日任命[9]。
勢力早見表※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
内閣の動き前任の犬養内閣は、満洲事変によって建国された満洲国の国家承認を巡って、犬養毅首相は国際社会との協調路線をとるために非承認の姿勢をとり、満洲建国に動いた関東軍を支持する国内世論[注釈 7]を背景に国家承認を求める荒木貞夫陸相と対立していた。犬養首相は荒木配下の将校(一夕会)の馘首を計画するが、1932年5月15日、一部の海軍将校に白昼暗殺される(五・一五事件)。 後継を巡り、当初は憲政の常道により立憲政友会の内閣が継続する見込みであったことから、政友会は党内最大派閥の領袖であった鈴木喜三郎を早々に次期総裁に選出する。ところが、当時の政界は、前政権の第2次若槻内閣が満洲事変への対応を巡って迷走して求心力を失っていった末期から、政友会および立憲民政党が世論の政党への不信に迎合して、両党の協力内閣(大連立)や、官軍界の有力者を担いだ挙国一致内閣など、憲政の常道の根幹である政党内閣制を自ら毀損する政治工作を行っていた。この時の政友会も、鈴木総裁を選出しながら、擁立した森恪は平沼騏一郎枢密院副議長を推し、反発した鈴木総裁は荒木陸相と直接交渉しようとするなど、党内対立が発生する。西園寺公望元老は重臣らと協議を重ねた末、政党内閣制を放棄し、斎藤実海軍大将を推挙する。朝鮮総督や海相をつとめた行政経験が評価されての選出であった。
斎藤内閣は、政友会および民政党からともに大臣を迎え、大連立政権として組織されたが、斎藤首相本人は非政党員であったことから議会に直接の基盤を持たなかった。そのため、かわりに世論の支持を基盤とすることになった。これが、当初想定されていた堅実な行政処理にとどまらず、満洲事変への対応に関して後述の強硬な態度をとって国際連盟と対立、脱退するという大きな政治決断をすることになった[16]。 また、政民両党の側も、政友会鈴木派は自らが政権を逃した後釜の内閣であったことから不満であったが、ここで内閣に対立しても次期総選挙で勢力を維持できる見通しがなかったことから内閣をただすことができず、また反鈴木派や民政党は将来の禅譲を期待して政権運営に協力したため、2年にわたり安定的な議会対策をなすこととなった[17]。
1934年(昭和9年)1月、時事新報(武藤山治社長)が、繊維会社の帝人と財界人グループ「番町会」や鳩山一郎とのあいだの贈収賄疑惑を報じたことから調査が開始され、帝人社長、帝人の株式を担保していた台湾銀行の頭取、番町会の永野護、大蔵省の次官・銀行局長ら16人が起訴された(帝人事件)。 政財界だけでなく高橋蔵相の息子まで疑惑が広がり、政権批判の世論が収まることはなく、斎藤内閣は7月8日、内閣総辞職した。後継には岡田海相が立てられる(岡田内閣)。 なお、その後、帝人事件の担当裁判官の石田和外らは1937年、被告ら全員に事件そのものが事実無根として無罪判決を言い渡した(司法大臣は小山松吉)。 出版物
脚注注釈出典
参考文献
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