第2次若槻内閣
第2次若槻内閣(だいにじ わかつきないかく)は、貴族院、立憲民政党総裁の若槻禮次郎が第28代内閣総理大臣に任命され、1931年(昭和6年)4月14日から1931年(昭和6年)12月13日まで続いた日本の内閣。 閣僚の顔ぶれ・人事国務大臣1931年(昭和6年)4月14日任命[1]。在職日数244日(第1次、2次通算690日)。
内閣書記官長・法制局長官1931年(昭和6年)4月14日任命[1]。
政務次官1931年(昭和6年)4月15日任命[4]。
参与官1931年(昭和6年)4月15日任命[4]。
勢力早見表※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
内閣の動き1930年11月14日、時の濱口雄幸首相が銃撃されて重傷を負い、療養するも回復の兆しを見せなかったことにより、翌1931年4月4日に辞職を表明。憲政の常道により、後継の立憲民政党総裁を首班に推すこととなる。当時の民政党内は、安達謙蔵内相と江木翼鉄相が二大実力者であったが、党内対立を避けるべく、元総裁の若槻が再登板、首相に復帰し、4月14日、ほぼ居抜き内閣の形で、内閣が発足した[5]。
満洲事変に関する国際社会の一定の支持を取り付けた直後の12月11日、若槻内閣は突如として内閣総辞職するに至る。 これは、安達内相の造反によるものであった。発端は満洲事変の勃発直後、若槻首相は関東軍と国際世論の板挟みになって指導力を発揮できず、政権運営のめどがつかないことから、辞意を漏らすようになる。安達内相は相談を受けた際、事態打開のために政友会との大連立政権(「協力内閣」)の発足を提案する。若槻首相は一旦は同意するが、内閣を支える幣原外相と井上蔵相は言下に否定したため、若槻首相は安達内相に協力内閣計画の中止を伝える[11]。 しかし、若槻首相は重臣らへの相談を重ねるなど、政権は安定性を欠き、これを見た周囲は安達内相を筆頭に次期政権を巡り食指を動かし、様々な陰謀が渦巻く事態となる。11月8日には安達内相が協力内閣樹立の談話、21日には声明を発表し、運動は公然の事実となる[12]。 一方の若槻首相は、協力内閣をいったん取り下げ、国際社会の支持を取り付けることに成功する。しかし、その一報が飛び込んでくる直前の12月10日朝、安達内相側近の富田幸次郎民政党顧問と、久原房之助政友会幹事長の間で、「協力内閣」樹立の覚書が交わされ、富田顧問から若槻首相に手交される。同日の閣議で若槻首相は安達内相を問い質すが決裂、中座した安達内相は閣議出席を拒否し、閣内不一致が発生した[13]。閣内不一致の際には大臣の罷免または内閣総辞職が必要であるが、実際には後者をとる運用がなされており、この時も若槻内閣は直ちに総辞職を余儀なくされた。 この時、若槻首相は、内閣総辞職の原因は安達内相一人の造反であることから、加藤高明内閣の時の先例を用いて[注釈 2]、安達内相を除く辞表のつき返しによる内閣の存続を目論んでいた[14]。 しかし、安達内相の造反そのものの理由は、事変当初に若槻首相が優柔不断で政府方針を決定できず、協力内閣をめぐる陰謀が公然と行われるのを止められないという政権運営の不手際にあった。そのため、西園寺公望元老は今回の内閣総辞職を、失政の責任とみなし、12月12日、野党立憲政友会の犬養毅総裁に大命降下される[15]。
若槻内閣の後半では、若槻首相の優柔不断と安達内相らの政治的野心により、政官界の様々な人物が首相の候補に擬せられ、与野党第一党の党首のみが首相の候補たりえるという憲政の常道の根本原則が大きく毀損される。西園寺元老はこれを重く受け止め、大命降下の直前に私邸に犬養総裁を呼び出し、新政権は政友会単独内閣で行うよう念を押すなど、憲政の常道を維持させることにつとめる[16]。 ところが翌1932年、犬養首相が五・一五事件で暗殺された後、政友会は自党の鈴木喜三郎次期総裁以外の者を首班に迎えるべく工作して内紛するなど、若槻内閣末期の混乱が再発するに至り、西園寺元老も政党内閣制の継続を断念、非政党人の斎藤実海軍大将を首班とする斎藤内閣が政民両党の協力内閣として発足、以降も挙国一致内閣が連続して発足し、憲政の常道は完全に崩壊する。 また、民政党は1940年に新体制運動に呼応して解党するまで、党総裁が首相に推挙されることはなかった。 脚注注釈出典
参考文献
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