第2次松方内閣
第2次松方内閣(だいにじ まつかたないかく)は、伯爵の松方正義が第6代内閣総理大臣に任命され、1896年(明治29年)9月18日から1898年(明治31年)1月12日まで続いた日本の内閣。 内閣人事
1896年(明治29年)9月18日任命[1]。在職日数482日(第1次、2次通算943日)。
※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
内閣の動き前内閣の第2次伊藤内閣は、議会運営を安定に進めるべく、自由党(板垣退助総理)との連立政権の形態をとっていたが、超然主義を志向する山縣有朋元首相や、二大政党の一方の雄であった進歩党(大隈重信党首)らの反発を招き、結局1896年(明治29年)8月31日、日清戦争後の政情の安定化を見届けて内閣総辞職する。 薩長両藩の出身者が交互に首相に任官していたことから、後任の首相には、薩摩出身の松方正義前首相が選定、9月10日に大命降下する。内閣は議会対策として、三菱財閥の岩崎弥之助の仲介により進歩党と連立を組み、大隈党首が外相として入閣、したほか、書記官長・法制局長官、更に当時勅任官であった参事官の一部に党人が就任した。この結果、尾崎行雄が外務省参事官に任命されるなど政党からの参事官起用が実現した(逆に、これが第2次山縣内閣による文官任用令改正の遠因となる)。このため、この内閣を松方と大隈の名より「松隈内閣(しょうわいないかく)」とも呼称する。内閣の成立当初から政党との連立が行われたのは、この時が初めてであった。 しかし一方で、陸相人事で当初内定していた桂太郎台湾総督(長州)ではなく高島鞆之助拓殖務大臣(薩摩)が就任したことから薩長間で亀裂が生じ、長州閥が政権との間で距離をとるようになった。松方は内閣運営のために進歩党に依存するようになり、薩摩閥内の反進歩党勢力の反発を招き、進歩党側との間でも軋轢が生じる。松方が財政難の解決のために地租改正反対一揆以来一種のタブーとなっていた「地租増徴」を提案したことが引き金となり、進歩党内に倒閣の機運が生じた。進歩党は1897年10月31日、常議員会において提携断絶を決議、大隈党首はこれを受けて11月6日に外相を辞任して、他の進歩党員ともども閣外に去った[14]。 議会の足場を失った内閣は、連立組み換えを模索して自由党に接近、党内非主流派の松田正久を窓口に交渉を行い、松田は大臣2枠、知事5枠、自党政見採用を条件に話をまとめるが、親長州の立場で党を束ねていた林有造ら主流派との間で路線対立となり、12月15日の党大会において、自由党は松田の提案した政権入りを否決する。12月24日、第11回帝国議会が召集されるが、同日中に内閣不信任案が提出される。翌25日、松方は衆議院解散を断行する(第5回衆議院議員総選挙)。だが、選挙後の政権運営の方策が全く見出せなかった松方はその日のうちに辞表を提出した。衆議院を解散してそのまま内閣総辞職を行った例は大日本帝国憲法・日本国憲法を通じてこの時だけであった[注釈 6][注釈 7][16]。 松方内閣が打ち出した「地租増徴」はその後も尾を引き、翌1898年12月に第2次山縣内閣のもとで成立するまでの1年間の間に、2度の総選挙、3度の首相交代、主要公党の合同と分裂、と、政変が繰り返される1年となった。また、松方が第1次政権と合わせて2度にわたり議会対策に失敗、内閣総辞職したことにより、薩摩閥の力は低減、海軍などの一部を除き、長州閥の優位が生まれる。長州閥は伊藤、山縣がそれぞれこれ以降も首相復帰、さらに桂太郎が長期政権を樹立するが、薩摩閥は黒田清隆、松方ともに首相復帰はなされず、薩摩出身の首相は15年後の山本権兵衛まで待つことになる。 主な政策
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク |