勝俣稔勝俣 稔(かつまた みのる、1891年(明治24年)9月5日[1] - 1969年(昭和44年)3月9日[1][2][3])は、大正から昭和期の医師、技官、公衆衛生学者[1]、政治家。参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)、厚生省顧問[4]、藤楓協会理事[5][注釈 1]。父は、医師で第2代上田市長を務めた勝俣英吉郎。日本の近代公衆衛生の父と称された[6]。 経歴長野県小県郡上田町馬場町[6](現上田市[1])で勝俣英吉郎の長男として生まれた[6][7]。上田中学校[6][7](現長野県上田高等学校)、第八高等学校[6]を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学医学部を卒業[1][2][3][7]。 北里研究所に入所[1][6]。慶應義塾大学医学部に転じ細菌学教室助手に就任[1][2][3][6]。 1923年(大正12年)内務省衛生局に移り防疫官に就任[1][2][3][6][7]。関東大震災では医療救護に尽力[6]。1936年(昭和11年)内務省技師兼衛生局防疫課長に就任[6][7]。衛生省の設立に尽力して[6]、1938年(昭和13年)厚生省が設立し予防局予防課長に就任[6]。1939年(昭和14年)予防局結核課長[6]、1942年(昭和17年)予防局長[2][3][6][8]を歴任。その後、衛生局長[9]、厚生技監を務める[2][3]。1946年(昭和21年)11月に退官した[1]。この間、結核の予防対策としてBCG接種、X線間接撮影の導入に尽力した[6]。 1947年(昭和22年)結核予防会長[1]、結核研究所副会長兼理事長[注釈 2]に就任。1950年(昭和25年)日本医師会常任理事に選出されるが、就任辞退[10]。1951年(昭和26年)日本公衆衛生協会に理事長として参加[2][注釈 3]。1960年(昭和35年)日本公衆衛生協会長に就任[7]。1961年(昭和36年)結核予防審議会委員に就任[11]。 政界では1952年(昭和27年)第25回衆議院議員総選挙で当選し衆議院議員に1期在任[1][2][7]。1956年(昭和31年)7月、第4回参議院議員通常選挙に全国区で当選し1期在任[1][3]。1960年7月22日、第1次池田内閣で外務政務次官に就任した[2][3]。その他、自由民主党総務、参議院自民党政策審議会社会部長なども務めた[2][3]。 1965年(昭和40年)春の叙勲で勲二等旭日重光章受章(勲三等からの昇叙)[12][13]。 1969年(昭和44年)3月9日死去、77歳。死没日をもって従四位から従三位に叙される[14]。 国政選挙歴
伝記
脚注注釈出典
参考文献
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