山本茂一郎
山本 茂一郎(やまもと もいちろう、1898年(明治31年)10月8日[1][2] - 1978年(昭和53年)5月13日[1][2][3])は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。 陸士31期[2]、陸大38期(優等)[2][4]。参議院議員(2期)。 経歴和歌山県出身[1][2][4]。農業・製糸業山本亀吉の四男として生まれる[1]。五條中学校卒を経て[1]、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業[1]。同年12月、歩兵少尉に任官され、歩兵第38連隊付となる[1]。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を優等で卒業した[1]。 1928年(昭和3年)3月、陸軍省整備局付勤務、整備局課員、イギリス駐在などを経て、1933年(昭和8年)3月、陸軍兵器本廠付に発令され、ジュネーブ軍縮会議日本全権団随員となる[1]。1934年(昭和9年)3月、整備局課員に就任、整備局付(資源局事務官)などを歴任し、1935年(昭和10年)8月、陸相秘書官となった[1]。1938年(昭和13年)7月、軍務局課員(軍務課)となり、1939年(昭和14年)8月、歩兵大佐に進級し歩兵第228連隊長に就任し[1][4]日中戦争に出征[2]。 1940年(昭和15年)10月から北支那方面軍参謀となり太平洋戦争を迎えた[1]。1942年(昭和17年)3月、教育総監部第1課長となり、1943年(昭和18年)3月、第16軍参謀兼軍政監部総務部長に発令され、同年8月、陸軍少将に進級した[1][2][4]。1944年(昭和19年)11月、第16軍参謀長兼ジャワ軍政監となり終戦を迎えた[1][2][4]。1946年(昭和21年)4月、戦犯容疑により逮捕された[1]。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[5]。1949年(昭和24年)12月、オランダ軍裁判で無罪判決を受けた[1]。1950年(昭和25年)3月に帰国[1]。 1965年(昭和40年)7月、自由民主党から第7回参議院議員通常選挙の全国区に立候補し当選した[3][6]。1971年(昭和46年)6月、第9回参議院議員通常選挙で再選されたが[3][7]、1977年(昭和52年)7月の第11回参議院議員通常選挙には出馬せず引退した。この間、参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会委員長、第2次田中角栄第1次改造内閣の農林政務次官などを務めた[3]。その他、軍人恩給連盟全国連合会長、自民党和歌山県連顧問、日本インドネシア協会顧問などを歴任した[3]。 1978年(昭和53年)5月13日死去、79歳。死没日をもって正五位から正四位に叙される[8]。 栄典
親族著書
脚注
参考文献
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