平井太郎
平井 太郎(ひらい たろう、1905年〈明治38年〉7月17日 - 1973年〈昭和48年〉12月4日)は、日本の政治家、実業家。四国新聞社、西日本放送社長。自由民主党参議院議員(4期連続当選)。 経歴玉藻座社長を務めた平井実の長男として、香川県木田郡田中村(現・三木町)に生まれる[2][3][4]。 1928年(昭和3年)明治大学専門部商科卒業後[1]、高松市会議員に当選し玉藻組(のちの玉藻建設)の社長となる[4]。 1937年(昭和12年)8月から約1年間、陸軍主計少尉として応召、除隊後、玉藻組など実業界で活躍しているうち、終戦を迎える[4]。 1946年(昭和21年)高松商工会議所会頭、48年香川県経営者協議会会長、50年香川県商工会議所連合会会長、51年四国電力監査役に選ばれる[4]。 1951年(昭和26年)四国新聞社社長に就き、53年にはラジオ四国(ラジオ香川を経て、現・西日本放送)を創設し社長になった[5]。このほか、瀬戸内航空社長、四国電力取締役、学校法人高松女子商業高等学校(現・高松中央高等学校)理事長等も歴任した[5]。 1973年12月4日、参議院議員4期目在職中に死去。68歳没[6]。 三木町名誉町民のほか、2004年には香川県の歴史や文化に貢献した人物として「讃岐の百人」に選定される。 参議院議員1950年(昭和25年)の第2回参議院選挙全国区に自由党から立候補し初当選。55年の保守合同で自民党参議院議員となる。 1956年(昭和31年)の第4回参議院選挙では香川県選挙区に転じて再選され、同年から翌57年まで石橋内閣及び第1次岸内閣の郵政大臣を務める。 1958年(昭和33年)から62年まで参議院副議長を担い、党参議院幹事長、党参議院議員会長も務めた。 人物平井は、家業の建設業から手を広げ、戦後になって地元の新聞社を買収した。地方政界から国政にも進出し、1951年(昭和26年)電気通信省の政務次官に就いたことで放送局の利用価値に気づく[7]。当時、毎日新聞の電波担当だった田中香苗(のち社長)によれば、次官在職時に同郷の縁で訪ねてきて「民間放送をやりたい」と協力を求めてきたという[7]。2年後の53年に結実しラジオ四国を開局。社長に就く[7]。そのまま56年に郵政相となり、退任の3か月後には自身の西日本放送にテレビ免許が交付された[7]。次の社長は娘婿をあて、自身は68歳で亡くなるまで会長に留まった[7]。 親族選挙歴
関連書籍
関連項目脚注
参考文献
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