ポスフールポスフール(Posful)は、かつて北海道で展開していた総合スーパー(GMS)である。 企業名としてのポスフールは2002年(平成14年)1月から[1]2007年(平成19年)8月20日まで使用され[2]、店舗名としてのポスフールは2002年(平成14年)から2011年(平成23年)2月28日まで使用されていた[3]。 2007年(平成19年)8月21日に企業名はイオン北海道に商号変更され[2]、イオングループの店舗名統一により2011年(平成23年)3月1日にジャスコ、サティ、マイカルと共にイオンへ転換され約9年で屋号自体が完全に消滅した[3]。 本項では、その前身についても記述する。 歴史・概要前身の創業から法人化1932年(昭和7年)に佐々木忠が浦河町で洋品雑貨店を創業し[4]、1939年(昭和14年)に水上正勝が室蘭で桐屋呉服店を創業して[5]、1953年(昭和28年)に高橋清が紋別市本町で創業した[6]。 1954年(昭和29年)10月に株式会社得地商店(後の「株式会社とくち」)を設立し[7]、1955年(昭和30年)6月4日に有限会社桐屋呉服店が設立された[5]。 1956年(昭和31年)4月30日に林欣一が株式会社カネイ林呉服店を設立し[8]、同年8月1日に佐々木忠が株式会社佐々木勉強堂を設立した[4]。 1963年(昭和38年)3月5日に高橋清が資本金500万円で株式会社山ト・ヤマトストアを設立し[9]、同年7月に株式会社カネイ林呉服店が株式会社かねいに商号を変更した[8]。 1965年(昭和40年)4月に大川祐一が独立して創業し[10]、1971年(昭和46年)8月に大川祐一が後志管内余市町に株式会社ヤマダイを設立した[10]。 ニチイ・アライド・チェーン加盟とニチイの北海道進出1975年(昭和50年)10月に株式会社永和・株式会社かねい・株式会社佐々木勉強堂・株式会社ヤマダイの4社がNAC(ニチイ・アライド・チェーン)に加盟した[11]。 そして、1977年(昭和52年)11月に株式会社かねいが「恵庭ファミリーデパート」を開店して[12]、同月に株式会社とくちが「栗山ファミリーデパート」を開店し[7]、同月に株式会社佐々木勉強堂が「静内ファミリーデパート」を開店した[13]。 1978年(昭和53年)4月5日に株式会社北海道ニチイを設立し[14]、同年9月20日に株式会社室蘭ファミリーデパートを設した[15]。 そして、11月20日にニチイの北海道進出1号店として「ニチイ江別店」を開店し[14]、同月30日に「ニチイ千歳店」を開店した[16]。 さらに、1979年(昭和54年)5月30日に「ニチイ帯広店」を開店し[17]、同年7月20日に「ニチイ藻岩店」を開店した[18]。 1980年(昭和55年)2月8日に紋別ローズタウンを開店し[19]、1981年(昭和56年)4月15日には「室蘭ファミリーデパート桐屋」を開店した[20]。
経営統合で北峯百貨店からマイカル北海道、そして、上場へ1980年(昭和55年)3月1日に株式会社永和・株式会社かねい・株式会社佐々木勉強堂・株式会社ヤマダイの地場スーパー4社が合併して(初代)株式会社北峯百貨店を設立して経営統合した[11]。 1981年(昭和56年)12月1日に[21] - 株式会社山ト・ヤマトストアが(初代)株式会社北峯百貨店・株式会社啓有・株式会社紋別ファミリーデパートを合併して(2代目)株式会社北峯百貨店に商号を変更し[9]、1982年(昭和57年)6月に(2代目)株式会社北峯百貨店から株式会社ホクホーに商号を変更した[9]。 1992年(平成4年)3月1日に「株式会社北海道ニチイ」が「株式会社ホクホー」と合併し[22]、1996年(平成8年)7月に「株式会社マイカル北海道」に社名変更した[22][23]。 1998年(平成10年)11月19日に東京証券取引所上場した[23][25]。 生活百貨店・サティの展開北海道ニチイがホクホーと経営統合する以前から、当時の「ニチイ」が進めていた総合スーパーよりも百貨店に近い性格の生活百貨店・サティ業態[26]で出店を行っていた。1990年(平成2年)10月27日に株式会社ホクホーが北海道最初のサティとして永山サティを開店していたほか[27]、旧北海道ニチイも1991年(平成3年)4月19日に「東苗穂サティ」を開店していた[28]。 前述の「ヤマダイ」をルーツとする[29]「ニチイ余市店」も、合併直後に移転・拡張する形で1992年(平成4年)10月30日に「余市サティ」を開店[30]。1994年(平成6年)10月21日に「ニチイ釧路店」を「釧路サティ」に改称して新装開業[31]。年商100億円を達成した[32]。 1996年(平成8年)には3月15日に「ニチイ千歳ショッピングデパート」を売場面積を約5,250m2から約14,550m2へ大幅増床して「千歳サティ」に改称して新装開店した[25]。それを皮切りに、春光サティ、岩内サティ、厚岸サティ、手稲サティ、紋別サティと相次いで業態転換を行って増収増益に繋げ[33]、1996年(平成8年)9月19日に株式の店頭公開を果たした[24]。 これらの業態転換店舗の中でも「釧路サティ」と「千歳サティ」は年商100億円を上げるなど順調に売上を伸ばしたため、1997年(平成9年)11月1日に「ニチイ江別店」の隣接地に新店舗を建設して[34]シネコン(複合映画館)のワーナー・マイカル・シネマズを北海道で初めて併設した[35]「江別サティ」を開店して両店に続く年商100億円を目指した[32]。 1998年(平成10年)3月12日に「ニチイ帯広店」を「帯広サティ」に業態転換。十勝圏最大のショッピングセンターとして[36]有力ブランドも導入して百貨店レベルの顧客にも対応させて[26]直営部分の年商125億円を目指す基幹店舗として新装開店[36]。 このように生活百貨店・サティへの業態転換を進めて、1999年(平成11年)2月期に北海道の小売業としては初めて年商1,000億円を突破した[26]。 1999年(平成11年)10月8日に「ニチイ大谷地店」を増床し「大谷地サティ」に業態転換して新装開業したことにより全店舗のサティへの業態転換が終了[37]。 また、1999年(平成11年)3月11日にはマイカルグループの複合型大型商業施設マイカルタウンの一つとして開業した「マイカル小樽」6番街に「小樽サティ」を開店[38]。 2000年(平成12年)9月15日にはシネマコンプレックスの「ワーナー・マイカル」を併設すると共に[39][40]有力ブランドを導入した[26]「北見サティ」を開店[39][40]。 2000年(平成12年)11月30日には釧路サティをシネマコンプレックスも併設する[41]と共に店舗面積を1.6倍の約30,000m2に増床して若い女性に人気の衣料ブランドなども有力ブランドを次々と導入。2000年(平成12年)2月期の直営部分の売上高約130.5億円を更に伸ばして百貨店も含む大型小売店の「地域一番店」として競合他店の追撃を許さない弱点の見つけにくい売り場をつくり上げたほか[26]、同じ地方中核都市の帯広でも同様の店舗を展開して業績を伸ばした[26]。 こうした生活百貨店化戦略を展開して業績を伸ばして[42]6期連続の増収増益を果たし[43]、2000年(平成12年)2月には東京証券取引所第1部上場に昇格している[42][43]。 同年9月にはグループ企業の「根室ファミリーデパート」と「室蘭ファミリーデパート」の2社を吸収合併して大型店事業を全店直営化することになった[43]。 また、そうした百貨店に近い店舗だけでなく、「余市サティ」などの商圏の小さな店舗ではファッションブランドの比率を下げてよりスーパー的な性格の店舗とし、大都市の札幌圏では都心の百貨店との競合もあるためその中間的な性格を持たせるなど同じ生活百貨店・サティであっても地域特性に応じた対応を行った。 各々の地域の消費者を満足させることで2001年(平成13年)2月期に7年連続の増収増益となる売上高約1217.19億円(前期比9.1%増)、経常利益約39.52億円(前期比0.3%増)を上げた[26]。 ポスフールとして自主独立へ2001年(平成13年)8月28日に発行済式の58.84%にあたる645万株を「マイカル」が売却[44]。「マイカル北海道」は同社の連結対象から離れた[45]。 ただし、この時点では自主独立の運営で店舗の改廃などの経営判断は独自に行うものの、連結対象から外れてもマイカルグループから離脱せず、マイカル東北の一部店舗の引き受けの可能性も示唆していた[46]。 同年9月14日に「マイカル」が民事再生法の適用を申請して事実上破綻。その際には、「自主独立色を強めた全く別会社となり、道内のサティ20店舗の営業には何ら影響はない」として営業への影響を否定し、同社の破綻と一線を画した[47]。 そして、同年10月25日には「マイカルグループ」から離脱して北海道の地場資本として自主独立経営を目指すことを発表すると同時に、同年6月から金融機関を通してイオングループとの提携を打診されていたことを明らかにすると共にその案を拒絶することも表明した[48]。 そのため、2002年(平成14年)1月1日に社名を「ポスフール」に変更し[1]、2001年(平成13年)経営破綻したマイカルの支援企業に「イオン」がなって「サティ」の店名を今後も残すことになった関係で店名使用料を求められるのを避けるため[49]、2002年(平成14年)5月末までに、閉店が決まった大谷地サティを除く全店舗名を「ポスフール」に改称、ベースとなる色もサティ時代の赤紫からえんじ色に変更して自立した経営に移行した[50]。ポスフール業態になった後も、サティのコンセプトを引き継ぎ「生活百貨店」として運営していた。 2002年(平成14年)2月期に8年連続の増収となる売上高約1313億円を上げた[50]。しかし、人口減少や消費の低迷など北海道の小売業を取り巻く環境の厳しさの影響を受けて[51]翌年からは4年連続の前年割れとなって2006年(平成18年)2月期に売上高約1201.78億円(前年度比2.0%減)にまで落ち込み[52]、2005年(平成17年)2月期に上場以来初の赤字に転落した[53]。ただし、2006年(平成18年)も9年連続で北海道の小売業売上高首位を維持した[52]。 2003年(平成15年)10月には2004年(平成16年)5月から物流業務を三井物産に全面委託することで物流コストを年間4億円 - 6億円削減を目指すと発表した[54]。 イオン北海道へポスフール設立当初は反イオンを旗印にアークスグループ入りを検討するが、アークス側に断られてしまう。理由はイオンがマイカルが持っている一部株式を通しポスフールの株主になっており、アークス側がイオングループ化されることを拒否したためである[55]。余談だが、アークスグループはシジシージャパン加盟スーパーである。その結果、2003年(平成15年)11月10日にイオンが出資比率を30%に引き上げてポスフールと資本・業務提携し、店舗開発や商品のほか設備・資材などの調達、さらに物流などについて共同で取組むことになり、自主独立の経営に終止符を打つことになった[56]。 この提携を受けて、イオングループとエア・ウォーターの物流子会社エア・ウォーター物流が提携して2004年(平成16年)5月14日に江別市に開設した物流施設「イオン北海道SD」を全店舗の食品・衣料品の検品・ピッキングから配送まで共同で利用してコストダウンを図る[57]。 その後、業績の低迷を受けて2007年(平成19年)2月15日に岩内店を閉店する[58]などの再建策を進めた。 そして、2007年(平成19年)4月23日に既に筆頭株主だったイオンに第三者割当増資を行って出資比率を34%から53%に引上げて同社の子会社となった[51]。 さらに、同年8月21日にイオン北海道に商号変更すると共に[2]総合スーパー8店とスーパーセンター3店[51]をイオン本体から会社分割して譲渡を受けることになった[2]。 なお、この時点では企業名としての「ポスフール」は消滅することになったものの、店舗名は変更せず、従来通り「ポスフール」の店名が使用され続けた[3]。 このイオンとの経営統合に伴って仕入れ業者の変更などの帳合変更は行わないものの仕入れ価格はイオングループ共通の水準を要求することでコストダウンを図り[2]、規模や駐車場の配置の問題を抱えて売上が低迷していた西岡店を[59]2008年(平成20年)2月に閉店する[60]など経営の建て直しを進めた。 2008年(平成20年)4月25日には、イオン北海道設立後初の店舗・ショッピングセンターとなる「イオン名寄ショッピングセンター」の核店舗として「ポスフール名寄店」を開店し[61]、イオングループの電子マネーの「WAON」を導入するなどイオンの傘下入り後はグループへの統合が急速に進められ、2011年(平成23年)3月1日にイオングループの総合スーパーのブランド統一の一環としてポスフールも全店イオンへ店名も変更されて店舗名としてのポスフールも消滅してその歴史に終止符を打った[3]。 名称の由来この名称は一般公募したものの中から2001年(平成13年)11月8日に決定されたもので、Possibility Forever Universal Loveを略を組み合わせた造語である[62]。 ロゴマークの製作は、グラフィックデザイナーの原田進が担当した[広報 1]。 なお、ホクホー時代の2代目店舗看板・ロゴマークはHをモチーフとしたマークに「ホクホー」のロゴタイプを使用していた[広報 2]。 「ポスフール」「ホクホー」の店舗ロゴは、イオン北海道の2021年11月26日公開の会社案内動画[63]でも閲覧可能(「ニチイ」「サティ」についても掲載されている)。 年表
店舗2011年2月時点の、イオンにブランド変更した時点で営業を継続していた店舗を示す。2024年10月現在、改築された春光店を除く全店舗が営業を続けている。 道央圏
道北圏
オホーツク圏
釧根圏
十勝圏
閉鎖店舗ポスフールに変更して以降に閉店した店舗店舗名称をポスフールに変更して以降に閉店した店舗を示す。また店舗ブランドは閉店直前のもので示す。 →店舗名称をポスフールに改称する以前の閉鎖店舗については「過去に存在したマイカルの店舗 § 閉鎖された店舗」を参照
小樽ベイシティへの債権→「ウイングベイ小樽 § 小樽ベイシティ開発」も参照
なお、当社はマイカル北海道時代の出店時に出した店舗敷金と保証金の合計約61億円の他に、ポスフールとなってから日本政策投資銀行から買い取った約133億円の合計約194億円の債権を保有していた[160]。 2001年(平成13年)9月27日に負債約490億円を抱えて民事再生法を申請した「小樽ベイシティ開発」[161]が無担保の再生債務292億円の98.5%の免除を受けた際に、別除権のある当社の担保付き債務約194億円についてはその対象とならず、2005年(平成17年)3月に同社が民事再生手続きの終結決定を受けた後も返済協定が結ばれていない状態のまま債務が残る形となった[162]。 そのため、2007年(平成19年)8月10日に「小樽ベイシティ開発」がその債務の約90%の減免を求めて札幌地方裁判所に特定調停を申し立てた[162]。 この特別調停で協議を進めた結果、2008年(平成20年)4月1日に債務を29億円に減額したうえで、北武グループの協力により北海道銀行の支援を受けて同年7月末までに一括返済する中間合意内容を正式に発表した[163]。 ところが、同年9月17日に北武グループから再建への支援を得られなくなったことから、この計画はとん挫することになった[164]。 その後、2009年(平成21年)1月27日に「小樽ベイシティ開発」が特定調停を取り下げたため、計上予定だった貸倒引当金の戻し入れ益がなくなったことなどで、当社の後身の「イオン北海道」が赤字に転落している[165]。 さらに、債務返済を求めても「小樽ベイシティ開発」が応じない状況が続いたことから、2012年(平成24年)には「返済されないことで生じた利子分を相殺するための対応」として同年10月と11月の賃料の支払を停止している[166]。 脚注注釈
出典
広報資料・プレスリリースなど一次資料
関連項目
外部リンク |