棒二森屋
棒二森屋(ぼうにもりや)は、かつて北海道函館市若松町の函館駅前に存在した日本の百貨店である。この項では1994年(平成6年)2月28日まで当百貨店を運営していた会社(株式会社 棒二森屋)[4]についても述べる。中合運営時代は店名が中合 棒二森屋(なかごう ぼうにもりや)であった。 歴史・概要設立まで「棒二森屋」は、「金森森屋百貨店」および「棒二荻野呉服店」をルーツとする。 「金森森屋百貨店」は、1863年(文久3年)に長崎から函館へ移住して昆布など海産物の輸送を営んでいた大分県出身[5]の初代渡辺熊四郎(わたなべ くましろう)が、1869年(明治2年)に北海道函館市大町で北海道初の洋品店[5]であった「金森森屋洋物店」[6]として創業。1925年(大正14年)12月に渡辺商事株式会社[7]が、「四階楼」に時計台を配置した[7]鉄筋コンクリート造[8]3階建の新店舗を建設して金森森屋百貨店[9]を開業する。 一方の棒二荻野呉服店[7]は、1882年(明治15年)に滋賀県神崎郡(後の栗見荘村)出身の荻野儀平が、北海道上磯戸切地(現・北斗市)で「棒二荻野商店」として創業、呉服を扱った[10]のをルーツとして、1931年(昭和6年)10月2日にはシャンデリアのある催事場や食堂、エレベーターなどを装備した4階建500坪を超える大規模な新店舗に全面的な建て替えを行って本格的に百貨店化した。 棒二森屋設立両店は、将来的な函館駅前の発展を見込んで店舗の移転・拡張を目指し[10]、相馬合名会社の支援を受けて[11]1936年(昭和11年)6月12日に合併して株式会社棒二森屋を設立[10]した。 設立当初は旧金森森屋百貨店を棒二森屋末広町店[12]、旧棒二荻野呉服店は棒二森屋地蔵町店として引き続き営業し[12]、初代社長には旧棒二荻野呉服店の2代目荻野清六(おぎの せいろく)が就任した[10]。 合併翌年の1937年(昭和12年)10月1日に函館市高砂町(現・若松町=現在地)に5階建の新店舗を開業して合併の目的だった函館駅前進出を果たし[10]、第2次世界大戦前後の混乱を乗り越えて[10]、1965年(昭和40年)には売場面積6,513m2で札幌以外ではトップとなる売上高26.9億円を上げて、丸井今井函館支店の15.0億円(売場面積4,979m2)に大差をつけて函館の地域一番店となる[13]など道南を代表する百貨店に成長した。 1956年(昭和31年)に制定された百貨店法(第2次)では丸井今井函館支店と共に法律の適用を受けながら競争し、寄合百貨店として規制の対象外で1959年(昭和34年)に市内松風町に開業した彩華デパートや1968年(昭和43年)に同じく市内若松町に開業した和光デパートとは共に同じ函館駅前・大門地区で競いあうなど地場資本同士で激しい競争を繰り広げていた[14]。 昭和30年代から昭和40年代に進んだ人口の郊外移動とモータリゼーションの影響で[14]棒二森屋のある中心市街地の商店街の地位は1973年(昭和48年)に年間販売額が1968年(昭和43年)の6倍になった旧・亀田市赤川通地区など[15]の郊外の商業施設との競争に巻き込まれて地盤沈下し、造船不況による函館ドックの低迷や北洋漁業の衰退など地域経済が伸び悩むなど外部環境が厳しさを増していった[15]。 そして、棒二森屋と丸井今井の地場百貨店の影響で全国主要100都市で本州大手スーパー7社がひとつも出店をしていなかった函館[15]にイトーヨーカ堂と長崎屋が旧亀田市赤川通地区への進出計画を発表し[15]、地元経済が伸び悩む状況下での本州資本の進出に対して地元商業者と共に進出反対運動を繰り広げた[15]ものの、イトーヨーカ堂進出に賛同する8万人もの消費者の署名が集まったり[15]、「地区の今後の開発を見据えて核となる店舗が欲しい」と1975年(昭和50年)6月に亀田商工会会長が発言するなど地元の旧亀田市側が進出を歓迎する傾向にあった[15]ため、1980年(昭和55年)8月28日に「長崎屋 函館店」[注釈 1][15]が、同年9月3日に「イトーヨーカドー函館店」[注釈 2]がそれぞれ市内美原1丁目に開店し[15]、同月の函館の既存の大規模小売店が全店前年割れした際には棒二森屋も市内のトップの売上を維持したものの前年同月比-6.5%となる[15]など厳しい状況に追い込まれた。 さらに翌年1981年(昭和56年)3月6日には市内梁川町に百貨店の「函館西武」[注釈 3]が開業するなど競争が一段と激化した[15]。 経営母体の変化系列子会社が1社倒産するなど、競争激化により経営に支障が出ていたため、一時は同じく老舗百貨店の三越が棒二森屋救済に名乗りを挙げるも新館の建設で意見が対立。結局、大手スーパーのダイエーと業務提携を結びダイエー傘下となった[21][22][23]。 ダイエーとの提携後の1982年(昭和57年)9月1日にはアネックス新館を開業[11]して増床するなど競合に対抗し、1993年(平成5年)9月21日の臨時株主総会で筆頭株主で経営指導も行っていたダイエー系のアドバンスド・デパートメントストアズ・オブ・ジャパンへの営業譲渡を決議して1994年(平成6年)2月28日付で営業権を譲渡し[4]、運営していた株式会社は清算され消滅した。 2004年(平成16年)12月に産業再生機構がまとめたダイエー再建策に百貨店事業からの撤退が盛り込まれて売却の対象とされ[24]、地元流通業者と譲渡交渉が行われた[25]。しかし、2005年(平成17年)9月には営業継続の方針が固まり[26]、同年12月1日付でダイエーの子会社である中合と合併。棒二森屋の運営は同社が手掛ける体制に移行した[11]。 2015年(平成27年)1月1日にイオンがダイエーを完全子会社化し、中合もイオンの子会社となった。また同年9月にはダイエーが運営していた本館地階食品売り場を改装、直営化によって同月9日に成城石井などが入居して一部が先行開業。同月25日に全面的に新装開業した[27]。このほか、北海道新幹線が開業を見据え、本館の耐震・改修工事を行うとしていた(アネックス館は耐震基準に適合している)[28]。 閉店へだが、2017年(平成29年)4月、アネックス館4階で営業していた無印良品が本町地区・旧グルメシティ五稜郭店跡地にオープンした再開発ビル「シエスタハコダテ」に移転した[29][30]ことや、本館の耐震補強工事には多額の費用が見込まれること並びに棒二森屋自体の売上の低迷から、同年6月には閉店も今後の方針の一つとして俎上に載り、検討されていると各報道機関が報じた[31]。これを受け、同年11月には工藤壽樹函館市長がイオンの岡田元也社長を訪ね、閉店となった場合でも、跡地の活用を検討するよう要望していた[32]。 2018年(平成30年)3月、イオンは閉店を計画している棒二森屋について、本館とアネックスを建て替えた上で、本館跡の建物には低層階にスーパーや金融機関が入り、上層階にはマンションを設けるほか、アネックス跡の建物にはシティーホテルなどの宿泊施設を設ける計画案を同年3月17日に市や、商工関係者に伝えたと報じられた[33][32]。 同年6月29日、2019年(平成31年)1月31日をもって閉店することが正式に発表された[34]。 2019年1月31日、18時をもって閉店。18時30分より閉店セレモニーが行われ、多くの函館市民や元従業員が見守る中、小賀雅彦店長が閉店の挨拶を述べた。北海道函館西高等学校の吹奏楽部による「蛍の光」の演奏が流れる中、18時54分に正面玄関のシャッターが下り、150年に及ぶ歴史に幕を閉じた[35]。 閉店後棒二森屋は閉店したが、本館1階南東のテナント・ラッキーピエロ函館駅前店は10月15日まで営業、同月29日に函館朝市近くの「ホテルニューオーテ」2階に移転した[36]。 アネックス館は「函館駅前ビル」として、2月8日にプレ営業を[37]、2月20日に本営業を開始[38]。同ビルは、アネックス館時代から継続して出店するテナントや本館より移転したテナントが[39]2022年(令和4年)1月31日まで営業した[40]。 旧建物の解体は2025年(令和7年)春以降を予定しており、その後、本館跡北側には4階建ての商業施設(1・2階には医薬品や観光客向けの土産品などの販売店舗、3・4階は公共施設を想定)、本館跡南側には25階建ての高層マンション(152戸。家族向けを念頭に共用のキッズルームやシアタールームを設置)、アネックス館跡には広いコンベンション・ルームを擁した15階建てのシティホテルが設けられ、早くて2028年(令和10年)10月の全面開業を目指している。マンションやホテルはいずれも「函館一」の高さとなる。本館跡とアネックス館跡間の市道は廃道とした上、ガラスで覆い、国道側に交流広場を、南側に「美食」をテーマにした飲食店街を設ける。交流広場の一部にはかつての棒二森屋を思わせるデザインを施すとしている。 ボーニパーキングは24時間営業のコインパーキング「タイムズ函館」となった[41]。 フロア構成(2019年1月31日閉店時点) 本館
アネックス
看板棒二荻野呉服店時代より使用していた、「に」を模した(縦「棒」とカタカナの「ニ」)ロゴマークと、「Boni-moriya」(1994年以前は大文字の「BONI-MORIYA」だった)の文字入り看板を使用している。ダイエーとの提携をする前は、「に」を模したロゴマークと「森屋」の筆文字入りの看板を用いていた[42]。 沿革
関連会社
備考
脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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