野田第3次改造内閣(のだ だいさんじ かいぞうないかく)は、衆議院議員、民主党代表の野田佳彦が第95代内閣総理大臣に任命され、2012年(平成24年)10月1日から2012年(平成24年)12月26日まで続いた日本の内閣。
衆院選を挟まずに3回内閣改造を行った例は、この内閣と第3次吉田第3次改造内閣、第2次池田第3次改造内閣、第1次佐藤第3次改造内閣、第3次安倍第3次改造内閣の5つのみであり、回数としては最多。3度の改造が行われた期間は1年4ヶ月弱と最短である。
2012年(平成24年)11月16日に衆議院が解散され[1]、12月16日に実施された第46回衆議院議員総選挙で民主党が大敗、自由民主党(総裁:安倍晋三)・公明党(自公連立政権)への政権交代が確定。同年12月26日に野田第3次改造内閣は総辞職し、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦と3人の首相に渡った民主党政権は3年3か月で幕を下ろした[2]。後継政権として、第96代内閣総理大臣に安倍晋三自由民主党総裁が就任し、第2次安倍内閣が成立した。
概説
改造までの経緯
2012年(平成24年)
- 9月10日、金融担当大臣を務めていた国民新党の松下忠洋副代表が東京都江東区内の自宅で自殺を図り、死去した。その際、後任は置かれずに財務大臣の安住淳が事務代理を行い、後任の大臣は野田佳彦代表の任期が満了することに伴って行われる民主党代表選挙の終了後に任命する運びとなった。
- 9月21日、民主党代表選挙が行われ、立候補していた現職の野田佳彦、赤松広隆、原口一博、鹿野道彦(立候補順)の中から、党員・サポーター及び衆議院・参議院の国会議員による投票で野田が新代表に選出された。
- 9月24日、新代表に選出された野田が民主党の役員人事を行い、財務大臣の安住淳が幹事長代行に、環境大臣の細野豪志が政策調査会長にそれぞれ就任することが内定した。
- 9月28日、また、代表選挙後初となる与党党首会談が開かれ、民主党新代表となった野田が連立政権を組む国民新党代表の自見庄三郎と会談した。会談には、民主党幹事長である輿石東、国民新党幹事長の下地幹郎も同席した。その際、野田は直近に迫った内閣改造で国民新党から郵政民営化担当大臣を起用する意向を伝え、国民新党側も了承した。このときには、松下の後任として自見が再入閣する方針であったとされる。また、同時に国民新党は副大臣及び政務官の政務三役ポストについて、総務政務官の森田高、外務政務官の浜田和幸に加え、もう1つの政務三役を国民新党に配分するよう求めるとともに、金融担当大臣を郵政民営化担当大臣と兼務するよう要求したが、野田は金融担当大臣と郵政民営化担当大臣への兼務について明確に返答しなかった[3]。この会談の直後に開かれた民主党の両院議員総会で安住らの役員人事が了承され、これに伴い、政策調査会長であった前原誠司、幹事長代行の樽床伸二、国会対策委員長の城島光力らは退任することとなった。その後、野田は輿石と協議を重ね、改造内閣の陣容を固めていった。
- 10月1日、野田は臨時閣議を招集し、野田第2次改造内閣の閣僚を集めて辞表を取りまとめた。その後、自見との間で与党党首会談を開き、内閣改造の方針を確認し、組閣本部を設置した。なお、このときの与党党首会談では、郵政民営化担当大臣のポストを当初、内定していた自見ではなく、下地にすることで合意した。改造人事は野田自ら記者会見し、初閣議を開いた[4]。
- 11月14日、野田は自民党の安倍晋三総裁との党首討論で当国会での議員定数削減実現を呼びかけ、確約を得られれば16日に衆議院を解散してもいいと明言[5]。
- 11月16日、衆議院解散を断行した[6]。
- 12月16日、第46回衆議院議員総選挙において民主党は改選前議席から4分の1に減らす歴史的大敗を喫する[7]。野田は民主党代表辞任を表明[8]。
- 12月26日、特別国会の召集に伴い、臨時閣議で内閣総辞職した。在任482日[9]。後継政権として、第2次安倍内閣(自公連立政権)が成立した。
人事
2012年(平成24年)
- 10月1日 - 第2次改造内閣の閣僚辞表を取りまとめた後、内閣改造を行い、皇居での認証式を経て野田第3次改造内閣が発足した[10]。
- 10月23日 - 暴力団関係者との交際並びに外国人関係企業からの政治献金などの問題で野党からの批判を受けていた田中慶秋法相が、自身の体調不良を理由として法務大臣と自身が兼務をしていた拉致問題担当大臣を辞任[11]。
- 10月24日 - 滝実が法務大臣に就任し、内閣官房長官の藤村修が拉致問題担当大臣を兼務。
- 12月16日 - 第46回衆議院議員総選挙において、現職閣僚で民主党の公認を受けて立候補した城島光力、樽床伸二、田中眞紀子、三井辨雄、藤村修[注釈 1]、小平忠正、中塚一宏、国民新党の公認を受けて立候補した下地幹郎が落選。結果として、選挙に立候補しなかった滝実、森本敏を含めると10人が民間人として閣僚の職務に就くことになった。これにより戦後では民間人の人数が最多となった内閣である(閣僚18人中、10人が民間人となり、閣僚の過半数が民間人となった唯一の事例である)。大臣以外の政務三役でも斎藤勁内閣官房副長官のほか、11人の副大臣[注釈 2]、12人の政務官、さらに3人の首相補佐官が落選する壊滅的な大敗となった[注釈 3]。
- 12月26日 - 午前の臨時閣議において辞表が取りまとめられ、内閣総辞職。後継政権として、第2次安倍内閣(自公連立政権)が成立した。
内閣の顔ぶれ・人事
国務大臣
所属政党・出身:
民主党 国民新党
(民主党→)民間 (国民新党→)民間
中央省庁・民間
内閣官房副長官・内閣法制局長官
副大臣
大臣政務官
内閣総理大臣補佐官
職名
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氏名
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所属
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内閣総理大臣補佐官 (重要政策に関する省庁間調整等担当)
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大串博志
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衆議院 民主党
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内閣総理大臣補佐官 (重要政策に関する省庁間調整等担当)
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北神圭朗
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衆議院 民主党
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内閣総理大臣補佐官 (行政改革及び社会保障・税一体改革等担当)
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寺田学
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衆議院 民主党
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内閣総理大臣補佐官 (政治主導による政策運営及び国会対策担当)
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三谷光男
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衆議院 民主党
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内閣総理大臣補佐官 (政治主導による政策運営及び国会対策担当)
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川上義博
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参議院 民主党
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脚注
注釈
- ^ 藤村は現憲法下では初の「現職内閣官房長官の落選」となった。
- ^ 副大臣のうち参議院議員だった今野東は、鞍替えを目指して衆院選に立候補したことにより、公職選挙法の規定で参議院議員を退職(自動失職)となっていたが、結局落選している。
- ^ 政務官で衆議院議員のうち、稲見哲男は総選挙に立候補しなかった。
出典
関連項目
外部リンク
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名前は内閣総理大臣、名前の後の数字は任命回数(組閣次数)、「改」は改造内閣、「改」の後の数字は改造回数(改造次数)をそれぞれ示す。 カテゴリ |