東久邇宮内閣
東久邇宮内閣(ひがしくにのみやないかく)は、皇族、陸軍大将の東久邇宮稔彦王が第43代内閣総理大臣に任命され、1945年(昭和20年)8月17日から1945年(昭和20年)10月9日まで続いた日本の内閣。 皇族が首班となった史上唯一の内閣である。在職日数54日間は内閣制度発足後、長らく史上最短記録であった[注釈 1]。俗に「宮様内閣」などとも呼ばれた。 内閣の顔ぶれ・人事国務大臣1945年(昭和20年)8月17日任命[1]。在職日54日。
内閣書記官長・法制局長官他1945年(昭和20年)8月17日任命[1]。
政務次官参与官勢力早見表※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
内閣の動き東久邇宮内閣は、前の鈴木貫太郎内閣(鈴木貫太郎首相)の総辞職を受けて、皇族かつ現役陸軍大将である東久邇宮稔彦王が組閣した内閣である。 前の鈴木内閣は、発足当初より終戦内閣として組閣されていたため、ポツダム宣言受諾による終戦の詔書(日本の降伏)を発して間もない1945年(昭和20年)8月17日に内閣総辞職した。後任人事については、敗戦処理という困難な政策を遂行するため、強力な権威と実行力を必要とした。これまで複数回、国民および軍人を強力に統制するため、皇族であり現役の軍人であった稔彦王の首相待望論が持ち出されてきたが、その都度、内大臣木戸幸一の反対により阻止されてきた(東條内閣#内閣の顔ぶれ・人事を参照)。しかし、こと終戦に至って、軍の暴走(特に陸軍の中堅幹部)を抑えて政府秩序を再構築し、国民を統合して荒廃した日本を復興するためには、皇族が政府の先頭に立って、政治を担うしかないと考えられた。また、戦争にも敗北したことで、これ以上国家の事態が悪化するようなこともなかろうという読みからも、皇族を政治に擁立しやすかったといえる。 当初、次期首相に推挙された稔彦王は、皇族かつ軍人であるがゆえに、これまで政治に近づくことを禁じられ、政治経験も皆無であることを理由として就任を一時は拒否した。しかし、戦争敗北後の国家立て直しという困難な状況を克服するという大義名分の下、首相への就任を承諾し、戦前から親交のあった近衛文麿元首相に一切を委せており[6]、閣僚銓衡には国務大臣兼内閣書記官長と「内閣の大番頭」となる緒方竹虎(元朝日新聞社副社長)の意向も強く反映した[7]。そして、東久邇宮内閣は文部大臣に元朝日新聞社論説委員前田多門、総理大臣秘書官に朝日新聞社論説委員太田照彦、緒方の秘書官に朝日新聞記者中村正吾、内閣参与に元朝日新聞記者田村真作と、「朝日内閣」の観を呈した[8]。また陸軍は、三長官会議で教育総監土肥原賢二大将を陸軍大臣に推薦したが、稔彦王はこれを却下し、北支那方面軍司令官下村定大将を陸軍大臣に起用した。さらに稔彦王は統制派によって斥けられていた皇道派の小畑敏四郎、満州派の石原莞爾(辞退)、海軍反東条派の高木惣吉を緒方と近衛の意向で入閣に招いた[9]。 東久邇宮内閣は鈴木内閣で定めた「国体護持」の方針を引き継ぎ、就任後の記者会見で、「全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる」という、いわゆる「一億総懺悔」発言を行い混乱の収拾に努めた。ちなみにこの当時の日本国民(日本人)の内、いわゆる大和民族は約6000万人しかおらず、ここで言及されている「一億」には4000万人不足しているが、これは当時、まだ大韓民国(韓国)や朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)といった主権国家が朝鮮半島に成立しておらず、非日本領となったものの今後の扱いが不透明であった台湾および朝鮮半島の住民合わせて約4000万人を含めて「大日本帝国国民として大東亜戦争(太平洋戦争)を戦った者が総懺悔」とした表現であり、この時点では未だ国際法上の日本国籍を喪失していなかった台湾および朝鮮半島住民も含めて、世界に対して敗戦国民として戦争中の過ちを反省し、懺悔するという意味である。東久邇宮政権は、この「国体護持」と「一億総懺悔」を敗戦処理と戦後復興に向けた二大方針とした。 東久邇宮内閣は、省庁再編、陸海軍の武装解除、連合国軍の進駐、降伏文書調印など、次々と重要課題を処理していくことが求められ、いまだ体制の整わない連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からの指令にも対応していった。このような中で、GHQから1945年(昭和20年)10月4日に発令された、いわゆる「自由の指令」(人権指令とも。「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」)への対処が問題となった。この指令は、日本国民の人権確保のため、治安維持法、宗教団体法などの廃止や政治犯・思想犯の釈放、特別高等警察(特高警察)の解体、“日本共産党員や違反者の引き続きの処罰”を明言した山崎巌大臣を始めとする内務省幹部の罷免などを内容とした。しかし、東久邇宮内閣はこの指令を実行することによって国内での共産主義活動が再活発化し革命が発生することを危惧し、指令の実行を躊躇して内閣総辞職に至った。 1945年(昭和20年)10月5日に総辞職の意向を表明し、4日後の10月9日に次の幣原内閣(幣原喜重郎首相)が発足するまで、職務を執行した。54日間という在職日数は、それまでの林内閣(林銑十郎首相、在任123日間)の記録を更新し、2021年(令和3年)10月まで内閣制度発足後の最短記録であった[注釈 1]。ただ、2024年(令和6年)4月1日現在においても、東久邇宮の首相在職日数54日間というのは歴代首相の中でも最短記録である。 ちなみに東久邇宮内閣では「大戦後の日本の進むべき国家方針」について討議され「平和的新日本ヲ建設シテ人類ノ文化二貢献セムコトヲ欲シ」という国家目標が定められたが、この一文は「首相宮御訂正」と明記されていることから、東久邇宮稔彦王首相自らが書き込んだものとされる。 脚注注釈
出典
参考文献関連項目外部リンク
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