片山内閣
片山内閣(かたやまないかく)は、衆議院議員・日本社会党委員長の片山哲が第46代内閣総理大臣に任命され、1947年(昭和22年)5月24日から1948年(昭和23年)3月10日まで続いた日本の内閣。 内閣の顔ぶれ・人事国務大臣一人内閣1947年(昭和22年)5月24日任命[1]。在職日数9日。
国務大臣任命時1947年(昭和22年)6月1日任命[2]。在職日数284日(通算292日)。
内閣官房長官・法制局長官等1947年(昭和22年)6月1日任命[2]。
政務次官
首班指名選挙
勢力早見表※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
内閣の動き日本国憲法下で国会の指名を受け組閣を行った最初の内閣である。第23回衆議院議員総選挙の結果、比較第1党となった日本社会党を中心に、民主党・国民協同党からも閣僚を得て連立内閣とした。無産政党の議員が首相を務める内閣としては初のものである。 しかし、片山は本来、吉田茂率いる自由党を含めた(日本共産党を除く)「挙国一致内閣」(大連立内閣構想)を目指していたが、自由党が入閣に難色を示したため組閣は難航する。徹底した反共主義で鳴らす吉田や自由党幹事長の大野伴睦は党首会談の席上で「今日の閣議の機密を明日にはモスクワに漏らす分子(容共の社会党左派)がいる社会党政権には参加できない」「どうしても入閣して欲しいなら(社会党)左派を切って欲しい」と要求した。やむを得ず1947年(昭和22年)5月24日に片山単独で親任式を受け、片山が閣僚ポストのほとんど[注釈 11]の臨時代理となる一人内閣としての発足となった。 吉田は表向き「容共」の社会党左派のいる社会党政権には入らないと主張していたが、実際は4党連立による不安定な政権運営を見越し、共倒れを恐れ連立に加わらなかったとされる。吉田の予見は翌年になって現実化する。結局自由党からは閣僚を得られず、3党を中心に1947年(昭和22年)6月1日に閣僚人事が決まり、片山内閣が本格的に発足した。閣僚の割り振りは、社会党7名、民主党7名、国民協同党2名、緑風会1名といった各党のバランスを重視した「党派均衡内閣」ではあったが、外相、蔵相といった主要閣僚に社会党議員を充てることができず人材不足を露呈した上に、社会党左派からの入閣はなく、不安定な政局を予感させた。 裁判官任命諮問委員会における諮問を経て、1947年8月4日に三淵忠彦最高裁判所長官を指名し、14人の最高裁判所裁判官を任命した。 神奈川税務署員殉職事件を受けて三国人による密造酒醸造・脱税事件は政府の経済緊急対策の成否にかかる重大問題であるとして省庁間の連携を強めさせた[6]。 片山内閣時には、公務員の「公僕」化を目指す国家公務員法の制定、内務省を解体・廃止し、新たに国家地方警察と、全国に約1600の自治体警察を設置する警察制度の改革[注釈 12]、労働省の設置、失業保険の創設、封建的家族制度を廃止を目標とした改正民法の制定、刑法改正、臨時石炭鉱業管理法(通称「炭坑国家管理法」)等が実現した。中でも炭坑国家管理法は、社会主義政策を具現化した社会党の重要法案であり、片山首相と水谷商相がもっともその成立に意欲的であった。しかし、産業界から猛反発を受け、野党自由党ばかりか与党民主党からも難色を示されたため、法案は成立したものの、内容は「国家管理」とは程遠い骨抜きとなり政権の脆弱さを露呈した(詳細は臨時石炭鉱業管理法の項を参照)。 更には、炭坑国家管理法案採決の際の民主党幣原喜重郎派の造反と離党、社会党右派内での勢力争い(西尾末広官房長官と平野力三農相との対立)、衆議院予算委員会において党内調整が終わらないうちに社会党左派の造反による補正予算の否決など内部対立が表面化し、遂に政権運営に行き詰まり片山は1948年(昭和23年)2月10日退陣を表明した[7]。 脚注注釈
出典
参考文献関連項目外部リンク |